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論考‐004 「創られた伝統」と愛国精神

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Hutchinson. J. & Smith. A.(1994), Nationalism.とLSE通信課程教科書
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの授業の課題本なのでHutchinson. J. & Smith. A.(1994), Nationalism.を読み進めているが、ナショナリズム論の各著作や論文がまとめられており、勉強になる。日本の本では大澤真幸ナショナリズム論の名著50』を彷彿させる。
理非はさておき、愛国教育は今、日本でもホットな話題のようだ。
私も誰に教えられるわけでもなく高校時代は1868年~1945年の歌を少なくとも100曲以上は歌えたし、旧字の読み書きもできたし、教育勅語も軍人勅諭も幾度と読んだし、終戦の詔書も暗記していた程度には戦前文化に親しんでいたためか、それ以降、「ナショナリズム」には一際興味を持っていて、大学の卒論もナショナリズムをテーマに書いた。
日本では明治維新によって国民国家ができ、「文明開化」や「脱亜入欧」を行い、ちょんまげも切ったわけで、江戸時代までと明治以降の文化は一線を画する。文明開化に当たっては「散切り頭を叩いてみても、出るのはイカサマの音ばかり」と、反対する保守的な人も一定数いたわけである。そうした反対派の方が日本の伝統文化を守ってはいたと言えるが、結果的に文明開化のおかげで日本は明治後期に「一等国」になった。
江戸時代の歴史が大正時代に作りかえられたという話もあるように、西洋諸国同様、伝統は「創られた伝統」(Hobsbawm, E.)である場合が多い。さすれば、日本で「伝統的な日本の精神」とか言う場合には、実は150年前ぐらいからの「伝統」であったりするわけだ。
現在、日本が先進国であるのは、先人達の判断と努力あってのものなので、先人の精神に学ぶことは非常に有益なことだろう。しかし、その明治時代の新政府の精神とは、「日本を西欧の植民地にさせず、一等国とするためには伝統を捨ててでも富国強兵を行う」ということではなかったか。謙虚に西欧諸国に学んだことで、日本はアジアで唯一、時代の先端に追いつけた。一方で、旧体制のまま、時代に追いつけなかった東洋諸国は次々に西欧の植民地となった。

無意味な旧習や偏狭なナショナリズムに囚われれば、世界的な時代の流れについていけず国力の低下にもつながりかねない。発展のために何が大切なのかを判断し、必要に応じて旧習を捨て、尽力する精神こそ我々が近代を生きた先人から受け継ぐものではなかろうか。

論考-003 なぜ英語の勉強が重要なのかについての一考察

「なぜ英語を勉強するのか」―英語を使わなくても生きていける日本では、多くの学生が抱く疑問ではないだろうか。

英語ができなくても働けること、通訳・翻訳アプリがこのまま発展していけば英語を勉強しなくても意思疎通ができるのではないかという期待、そもそも外国人と関わる機会がないなど、様々な要因から「英語を勉強しなくていい」という考えを持つ人も多いだろう。

私自身、高校のときは英語は赤点を取ることも多く、大学のレベル別の英語クラス分けでも初級コースにいた。2年前までの英語力は酷いものだった。私が英語の勉強を始めたのは、主に仕事関係の理由に拠るものだが、少し勉強してみてその重要さを一層実感している。

一方で、勉強するか否かは別として、英語ができた方が良いという前提は多くの人が共有できるものだろうが、なぜ英語ができた方が良いのか。海外旅行で役に立つから、ビジネスで役に立つから、外国人と友達になれるから、英語の本も読めるようになればより多くの情報が得られるから、就職活動で有利になるから、大学進学に必要だから、海外の文化を学べるからなど、理由は容易に列挙できる。

実際にこれらは全て正しい。英語ができれば旅行や交友関係の幅は広がる。また、伊藤博文が「英語ができるから」初代総理大臣となった時代から130年経った今でも、日本では英語ができることがキャリアにつながる。

これらの一般的に語られる「英語を勉強する理由」はここでは扱わずに、その理由をもう一つ提示したい。あえて分類するのであれば「海外の文化を学べる」に近いが、「世界で共有されている視界を得られる」ということがある。

仮に完璧な通訳アプリが開発されて、スマホを持ち歩くだけで世界中の人と話せるようになったとする。海外旅行でも困らないし、ビジネスの交渉もスムーズに行くかもしれない。しかし、本当にそれがあれば母国語で母国の人と会話するように外国人と話せるのだろうか。いや、そんなことはないだろう。そもそも、人の心を推察できるようにならなければ、完璧な通訳アプリなんてものが作れるわけがなく、そんなことは現代の科学技術では到底無理である。(通訳アプリ事情は詳しくないので、認識に誤りがあればご指摘いただきたい)

例えば、日本人は人と話すときに「よろしく」とか「よろしくお願いします」という言葉を頻繁に発しているが、これに一対一対応する英語は存在しない。英語に訳す場合にはシチュエーションによって翻訳を変えなければならない。そもそも、それをシチュエーションに沿って翻訳したところで、その言葉を発することがそもそも英語文化圏では不自然になる場合も多い。この感覚は英語でのやり取りをしたことがある人ならば容易に理解できるだろう。

英語話者と日本語話者ではそもそもコミュニケーションを行う際の発想の仕方や論理の組み立て方に大きな違いがある。ハイコンテクストカルチャーかローコンテクストカルチャーかなどである。

そして、私が特にここで強調したいのは、「世界の見方が言語で変わる」ということである。同じ世界で生きていても、人間と動物、虫では世界の見え方が異なる。複眼なのか、色が認識できるのかなどの違いがある。思想や宗教、文化が違えば、世界の見方は変わる。そして、言語も無意識に人の視界を固定してしまうのである。

例えば、フランス語の"riviere"と"fleuve"、"ruisseau"などの違いは日本語の感覚とは異なると言われる。英語でも、単語帳や辞書に書いてある意味で理解してしまうと不十分なことが多い。この辺は言語学を勉強すると詳しいに違いない。大学時代にソシュールメルロ=ポンティなどを勉強していた際に、理屈では知っていたことだが、実際に英語を少しできるようになると強く実感できる。

今は海外在住なので手元に本がないが、ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』には「なぜ東洋では哲学が生まれなかったのか」という話が出てきたように記憶している。もちろん東洋でも東洋哲学はあったのだが、根底の思想が異なるので、そもそも概念が西洋哲学を理解するための言葉がなかった。

日本で明治時代に福澤諭吉西周などが西洋の文書の翻訳を進め、日本語にその訳語をたくさん作ったのは広く知られている。仮にその際に訳語が開発されていなかったら、果たして我々日本人の見る世界はどうなっていただろうか。日本語を完璧に話せる外国人は自身の考えを日本語で伝えられただろうか。現在では頻繁に使われる外国語の単語は日本語に該当する言葉が作られているが、まだまだ英語でしか理解できない概念が多い。

人は誰しも、様々なフィルター越しに物事を解釈しているが、そのフィルターの一つが言語であり、そのフィルターを日本語から英語に変えられることは重要な利点だろう。英語の話者数は中国語の話者数よりも少ないとされるが、日本などを除き、多くの国では国内でエリート教育を受けてきた人たちは英語を流暢に使える。つまり、英語圏のものの考え方などは広く共有されている。英語がわからなければ、例え通訳が付いていようと、多国籍の会議等の場で自分だけ正しい認識を共有できないことがあるだろう。視野を共有するためには、異文化を学ぶことも重要だが、同様に言語を学ぶ必要がある。

以上が本記事で最も書きたかった「英語を勉強する理由」であるが、もう一つ書いておかなければならないことがある。

確かに、現在の日本では英語がなくても生活には一切困らない。大学で勉強をするのでも、少なくとも理系分野では英語を使わなくても十分な学習環境が整っているのではないか。しかし、殆どの文系分野では日本語での教科書があるとしても、日本語で学ぶよりも英語で学んだ方が効果的であるだろうし、そもそも日本語だけでは重要な論文も読めない。

社会人も、今は多くの海外書籍が日本語翻訳で読める。しかし、ただでさえ出版不況が語られる中、今後、人口減少社会が進展する中で書籍を日本語翻訳していくことには、より慈善的な動機が求められるに違いない。良質な情報を得る際の英語の役割は一層大きくなる。

日本で英語の必要性が強く唱えられてから、すでに百数十年が経過しているが、依然として英語の勉強は重要だ。

人物-003 快楽亭ブラック

本の学校で学ぶ日本史においてオーストラリアの影は薄い。明治維新後に来日し、活躍した外国人のなかでもオーストラリア人というのは目にしない。それもそのはず、オーストラリアは1901年に独立するまで英国の流刑植民地であり、それまではオーストラリア人ではなく英国人であった。

 

英国人としてオーストラリアから来日した人物でおそらく一番有名なのは快楽亭ブラックだろう。快楽亭ブラックことヘンリー・ブラックは日本に定住を決めた父、ジョン・ブラックに呼び寄せられ、メルボルンから横浜に来る。

父のジョンは横浜からオーストラリアに戻った男性に日本の話を聞き、オーストラリアでの事業をあきらめイギリスに帰る途中に日本に立ち寄った。そして、ちょっと立ち寄る予定だった日本に定住を始め、英字新聞「ジャパン・ガゼット」を創刊した。ジョンはまた「日新真事誌」を創刊し、外国人として初めて日本語の新聞を創った。これは当時の「横浜毎日新聞」、「東京日日新聞」が「論説を書こうとせず、…(中略)…猥雑な小記事で塗りつぶされていて、外国人の目には、情けないと言うよりも害悪を及ぼす」と考えたためであった。

アデレードで生まれたヘンリーはジョンから手紙を受け取り母とともに来日する。幼くして来日したヘンリーは日本語を流暢に話し、正統派の落語家になる道を選んだ。そして1891年に快楽亭ブラックを名乗る。1893年には日本人女性の婿養子となることで日本国籍を取得、石井貌刺屈と名乗る

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ヘンリーは落語のほかにも手品、歌舞伎などの芸に富んだ。また、1903年に落語をレコードに吹き込み、これは日本で初めてのレコード録音とされている。

1923年にヘンリーが亡くなった後、英字新聞「ジャパン・ウィークリー・クロニクル」は以下のように書いた。

「西洋から日本に移り住んだ移住者のなかで、最もユニークな存在であった人物が亡くなった。その人物とは、石井ブラックで知られたヘンリー・ブラックである。…(中略)…石井ブラックほど、深く日本の生活に溶け込んだ人間はいない。彼は、日本という外国で、異民族を相手に、プロのエンタテイナーとして生涯を過ごしたが、日本のプロ顔負けの話術で客の心を動かし、すっかり日本人の心の中に入り込み、日本全国を旅して歩いた」*1

明治維新後、欧米からお雇い外国人をはじめ、多くの外国人が来日した。その中でも快楽亭ブラックことヘンリーは小泉八雲などと並んで最も日本文化に親しんだ者の一人だろう。なお、快楽亭ブラックの名は現在、福田秀文に襲名されている。

*1:遠藤雅子『オーストラリア物語』(平凡社新書、2000年)、170頁)

論考-002 日本の公共空間における広場についての考察–石川栄耀・丹下健三・隈研吾–

西洋は「広場」で東洋は「道」——。

東洋では伝統的に市民が集まるような公共的な広場が作られてこなかったとされる。

もちろん、今日の日本では広場は街のなかに取り入れられており、ときには憩いの場として、ときには集会の場(かつての新宿駅西口地下広場のように)として機能している。

今回はその広場について石川栄耀、丹下健三隈研吾という三人の作った広場から考察する。

 

「石川栄耀」という名は丹下や隈と比べれば現代では知られたものではないかもしれない。

石川は日本の特に東京の都市計画に絶大な影響を与えた人物であり、日本において先駆的に「広場」を取り入れた人物でもある。

東京都の都市計画課長だった石川がつくらせたという1947年の『20年後の東京』という映画では、イギリスの衛生大臣が都市は紙のように、焼いて造り変えられるものだったら良かったと嘆いていたが、戦災で焼け野原になった東京にはそのチャンスが巡ってきたと指摘しているという。

そこで帝都東京には「友愛の都」、「楽しい都」、「太陽の都」という三つの計画目標が定められた。そして、この「友愛の都」を作るものとして「広場」が登場する。

この石川の作った広場は歌舞伎町、麻布十番、名古屋大須にあるが、その代表的なものが歌舞伎町のものである。

1920年代後半から石川は広場上の空地の創出を実践していったが、その石川の求めた広場とは、交通のための広場ではなく、人と人のつながりを促す市民の交歓のための広場だった。

石川はイギリスの都市計画家アンウィンの広場設計論を踏襲し、Terminal vistaの形成によるT字路『字路などのあるものを想定した。そうして作られたのが、戦後の新宿歌舞伎町のコマ劇前広場であった。石川の手によって日本にも西洋のような、人と人とのつながりの生まれるような広場・盛り場が作り出されたのである。

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Tarminal vistaの図*1

 丹下健三は世界的に有名な建築家であるが、彼もまた広場に関心を寄せた人物だった。特に後年の新宿の東京都庁舎では、都民広場という広場が設けられ、ここに彼の広場に対する思想が反映された。

丹下は丸の内の旧都庁舎を設計した際に、「シティ・ホール」という概念を問題提起的に用いている。ヨーロッパの中世都市では都市の中心に広場、教会、市庁舎があったと言い、広場と庁舎を兼ね備えたシティ・ホールを日本にも作ることが考えられたのである。

その旧都庁舎はコルビジェ風のピロティも取り入れ、建築的な評価も高かったが、使用上の不便さや他の庁舎の老朽化、分散などが問題となり、鈴木都政下で都庁舎の移転が決まった。

新宿に建てられることになった新都庁舎では、まさに丹下が丸の内の旧庁舎で提起したシティ・ホールの建設が目標とされ、そのための広場を持つものとして構想が練られた。そして、再び都庁舎を設計した丹下が生み出したのが都民広場である。

都民広場は都民の交流の場、自治意識を高める場として設置されている。同広場はサンピエトロ広場をモチーフにしており、周りに置かれた人形の像もそれを意識している。世界中の教徒や観光客が訪れるキリスト教の施設であるサンピエトロ広場のような広場が、東京の象徴たる都庁舎に併設されるものとしてふさわしいと考えられたのだった。

 

隈研吾は現在、日本で最も注目されている建築家の一人である。自然素材を活かした建築が特徴とされているが、彼の作った広場もまた特徴的なものだった。

新潟県長岡市に建設されたシティホールプラザ・アオーレ長岡。これも庁舎であり、広場的空間を持つものである。ただ、彼の広場は丹下のそれとはひと味違う。その名も「ナカドマ」(中土間)、全く西洋の権威的広場を感じさせない名称だが、実際にその空間は丹下のシティ・ホールのような広場とは異なっている。

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 アオーレ長岡のナカドマ(筆者撮影)

 全てを受け入れる日本の土間、土を固めて作られた「ナカドマ」が庁舎の目の前にある。丹下の新都庁舎の80年代末から90年代はコミュニティづくりのためのインフラ、ハコが作られる時代だったが、隈は反ハコ、反コンクリートを提唱し、その集大成としてアオーレ長岡を位置づけている。

西洋のものも含めた旧来の庁舎観にとらわれない、ナカドマ(広場)は幼稚園生や小学生にも利用され、自然と人の集まるような空間だという。ここに日本の広場のあり方の一つのヒントがありそうだ。

 

石川栄耀のころの、日本への広場の導入は、世界的建築家・丹下健三の手で庁舎空間にも取り入れられ、その日本的なあり方が隈研吾によって示されている。今後もこうした「広場」が庁舎などの公共空間に設置されていくだろうが、どのような思想のもと、どのような広場が生まれて行くのか、期待できる。

*1:西成典久「都市広場をめぐる石川栄耀の活動に関する研究」

論考-001 ノートルダムは「科学的」か

 ノートルダム大聖堂については先日の記事の中で東京都庁舎と造形が似ているという程度に触れた。

 ノートルダム大聖堂とはゴシック様式の教会であり、パリのノートルダム大聖堂が観光地として有名だが、フランスを中心に12、13世紀ごろに建築された、先の尖った尖頭アーチ、採光に適した側壁の大きな窓、フライング・バットレスバットレスのある独特の形状の建築のことである(言葉で説明するよりも、実際に写真で見た方がわかりやすいだろう)。ゴシックの大聖堂と言った方が適切かもしれないが、あえて本論考ではこの表現で通す。

 

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(パリのノートルダム大聖堂アミアンノートルダム大聖堂

私はパリの大聖堂はもちろん、サン=ドニやアミアンなどの大聖堂を訪れたことがある(本論考内の写真はすべて私が実際に行って撮影したもの)が、それらは実に燦然としていて、「ゴシック」という言葉が(フランスへのナショナリスティックな敵愾心が根底にあったにせよ)イタリア人によって「未完成の様式」という侮蔑の意味を持って名付けられたものとはとても信じ難かった。

 

 ノートルダム大聖堂については一応の簡潔な説明をしたところで、もう一方の「科学的」という言葉についての話をしよう。「科学」とは何か。おおよそ普通の人が思い浮かべるであろうものは先進的な科学技術や難しい数式の並ぶような自然科学であるかもしれないが、それだけでもいいし、もちろん社会科学や人文科学を含めても構わない。特にここでは厳密な定義付けをせずに、物理学などを頭に思い浮かべてもらえれば良い。大事なのはその性質である。

 私はたいして勉強をしたわけではないが、大学時代に科学史・科学哲学の研究室に入っていた。入った理由はなんてことはない、大学でする研究はすべて「科学」であるし、「科学」、「歴史」、「哲学」というとても幅広い学問なので世界の構造を読み解くことに一番近いのではないかと思ったこと、そして逆に言えば何の卒業論文を書いてもその研究分野と言えてしまうことだった(実際に私も含め、研究室の学生の論文は実にバラエティ豊かだった)。

 3年のときのゼミの形式は、毎回課題図書を読んでそれについて議論するというものだったが、そのときにテーマとなった問いに「東洋では今日のような科学が生まれる可能性があったか」というものがあった。これは科学史では一般的な問いの一つかもしれないが、その際の議論はうろ覚えでしか覚えていない。

 科学史の分野でこの問いについて一般的にどのような結論が出されているのかは知らないが、そのときの議論では、否、もしくはかなり難しいという結論になったのではなかったかと思う。中国の文明は発展していたし、江戸時代の日本での珠算などの技術は欧州に引けをとらないものもあったのは疑いないが、西洋の科学技術の発展はキリスト教のような一神教の存在を抜きにして語れないからだ。

 キリスト教の影響下にあったヨーロッパでは、物事の根底には必ず一貫した論理があるというのが当然に考えられていた。科学的な発見には、神が創ったこの世界を解き明かすという思考が背景にあり、矛盾というものが自然に排除されていった。しかし、中国などの東洋では、台風のような自然現象に一貫した論理はないと考えられていた。矛盾を無理に排除することは厳密には行われていなかった。これが西洋と東洋の思考の根底にあるものの違いで、一神教こそが科学の発展に寄与したと考えられるのである。

 さて、ここで今日のテーマである「ノートルダム(大聖堂)は科学的なのか」という問いについて考える。「科学」の背景に一神教的な、この世に一貫した論理がある、つまり科学のなかに、この世は一点の中心(神)を持っているという価値観があったのは既に述べた通りである。

 

 盛期ゴシックの大聖堂は何よりも「全体性」を目指し、それゆえ、削除と綜合によって一つの完全で最終的な解決に近づいていった。・・・(中略)・・・その彫刻群においては盛期ゴシックの大聖堂は、キリスト教の神学的な、道徳的な、自然的な、そして歴史的な知識の全体を具現することを求め、その際、それぞれをそれぞれの場所におき、もはやその場所を見いださないものは削除した。建物のデザインにおいても同様に、それは別々の経路によって伝えられた主要なモティーフのすべてを綜合することを求め、ついには、バシリカと有心式平面型の間に比類のない均衡を達成した。そしてその際、クリプトや階上廊や正面の二塔以外の塔といったこの平衡を危うくするような要素はすべて削除してしまった。(アーウィンパノフスキーゴシック建築とスコラ学』前川道郎訳,p.60-61)

 

 ノートルダム大聖堂が建てられたころ、フランスを中心にスコラ学が隆盛を見せていたが、パノフスキーによれば、ノートルダム大聖堂(ゴシックの大聖堂)にはスコラ学の影響が見て取れるのだという。スコラ学の目的は矛盾を解消しキリスト教の信仰と、理性との統一することであったが、これこそがまさにキリスト教の下で科学技術が発展した背景にあったものに重なる。初期のゴシック様式のサン=ドニの聖堂とスコラ学とは地域・時間的な同一性があり、建築の建設者たちも当然スコラ学を学んでいるから影響があるのだという。

 ノートルダム大聖堂は先の引用文に見られるように徹底的な統一を志したことなどに加え、幾段に重なるアーチによって力学的に一点に集中するような構造を持っていた。このことがまたノートルダム大聖堂にスコラ的要素があることの証左とされる。

 

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アミアン大聖堂内のアーチ(ヴォールト))

 

 ゴシックの建築師たちはこのいわば非合理に連なる空間を合理的な秩序に従わせることに心を配った—中世の神学者が信仰と理性、非合理と合理、の和解に苦心してスコラ哲学の巨大な精緻な体系をつくり上げたように。驚くべき巧みなゴシックの構造体系とそれに素直に従いながら超越的な空間を現象させている堂内外の構図は、理性と感情、知識と信仰、の幸福な調和を言い現し、また主廊のおのおのの間その他いたるところに見いだされる分節的構造は、分かち難い混沌を分かつスコラ的合理主義を言い現しているといえる。実に、ゴシックの大聖堂は「石に化したスコラ哲学」と言うことができる。(森田慶一『西洋建築入門』,p.123-124)

 

 上記の引用文で「石に化したスコラ哲学」と言われるように、ノートルダム大聖堂には深くスコラ的な思想が根付いており、その意味で非常に科学的な(科学と同じ背景を持つ)建築と言えるだろう。

 もちろん、パノフスキーの議論にも批判はある。例えば、ジョルジュ・バタイユの研究者である酒井健は『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』のなかで、彼の議論の論拠の一つとなるゴシックとスコラの「同時性」には無理があると述べている(p.92)。しかし、酒井はゴシックにおけるスコラの影響こそ否定するものの、無関係ではないとして「両者は、調和への意志というこの時代の精神土壌、パノフスキーの言葉を使うならば『精神習慣』から生まれた二つの別箇の大輪なのだ」(同,p.93-94)と述べている。

 ゴシックとスコラ学の直接の関係はわからないが、これらの元になる精神土壌、つまり一神教的な精神土壌はともに科学の発展を押し進める動力でもあった。この意味でノートルダム大聖堂を見たときに、そこに「科学」に通ずるものを見ることができるだろう。

 

人物-002 丹下健三 -私と東京都庁舎-

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 私が建築に興味を持ったのはいつからなのか、正確なことはもう思い出せないし、もともとたいした経緯もなかったのかもしれない。

 ただ、私は大学4年のころ、訳あって少しばかり建築の勉強に励むことになった。

 東京大学工学部建築学科。そこにいた友人は私の無二の親友の一人だが、なんとも致し方ないやつで、私は大学4年の春から夏にかけてのころには毎日のように彼から「院試がやばい」という話をSkype上で聞かされていたのだった。

 そのころ東浩紀界隈でのアーキテクチャの議論を、当時はもうブームではなかったのかもしれないが、追いかけるようにして読んでいた私は、建築には興味もあるからと言って一緒に東大院の勉強をすることにした。その他にも理由があったのだという気もするが、それはこの場には書けない。

 院試の勉強をすることにしたとはいえ、私は建築なんてものには全くの無知であったし、小難しい構造の話は理解できないので、実際に院試を受けるのではなく、あくまで趣味で一緒に建築史を勉強する程度のことであった。

 

 そうしてわずかにでも建築の勉強をするようになった私の頭には常に意識するある一つの建築物があった。東京都庁第一本庁舎である。当時の私の見聞が狭かったこと、またその建物が単なる一つの建築物として私に意識されなかったこともあるかもしれないが、好きな建築を挙げるならばそれは都庁舎をおいて他になかった。そして、建築史を勉強する傍らであの建築について知りたいという強い思いがあった。 

 「丹下健三という建築家が作ったものらしい」というのは以前から知っていたのだが、彼が日本を代表する建築家であったこと、そして丹下の建築のなかで都庁舎は一番の代表作品と言われないことを知ったのはそのころだっただろう。

 そして建築史を勉強していく中で、都庁舎の造形はゴシック様式ノートルダム大聖堂を参考にしていると言われることを知る。丹下がゴシックをいつか作りたいとか言っていたから影響が出たとかどうとか、実際どこまで本当かは知らないが、一般的にそう言われる。このノートルダム大聖堂についてはまた後日書くと思うが、都庁舎と絡めて気になったのはその大聖堂の役割である。

 言うまでもなく、ノートルダム大聖堂キリスト教の宗教施設である。ちなみに、都民広場もサン・ピエトロ広場を参考にしており、これも宗教色の強い広場であるが、このときはそれを知らなかった。なぜ宗教施設をモチーフとしたのか、そしてこれは今となっては安易にこうは言いたくはないが、当時はこう思っていた。

 「なぜ、大聖堂で儀式等を行う中心部が空洞(広場)で、見かけが絢爛なファサードの双塔が行政の中心なのか」

 もちろん実用性を考えればそれは当然のことなのだから、愚かな問いである。しかし、もう少しだけ愚かしい考察をしてみよう。都庁舎が目指していたものが「シティ・ホール」であるとすれば、市民=都民の交流する場である広場こそがこの施設の中心とも言えるのではないか。

 「シティ・ホール」とは何か。丹下健三は丸の内のころの旧都庁舎の設計をしたときにこう述べている。

 封建社会から独立し、自治都市を築いた現代において、市庁舎は上から与えられるものではなく、市民社会の自由と独立の獲得のために自らを治める機関であった。だから市庁舎は市民意識の統一を生み出す象徴でもあったし、市民が集まり、まじわる場所である。ヨーロッパの市庁舎にはこのようなシティ・ホールがあり、ここは夕方から夜まで市民に解放されている。そこでは音楽団が音楽を聴かせることも、市民の結婚式が行われることもある(丹下健三『人間と建築』p.269-271の要約)。

 丸の内の旧都庁舎がどれだけこの役割を果たせていたのかはわからないが、都庁舎を建て替える議論が行われてくるなかで、再びこの概念が注目を浴びる。

 当時はなぜあの何もない空虚な空間が真ん中にあるのか(それこそ、ロラン・バルト的な「空虚な中心」ではないか)気になったものだが、それを考慮するとあそこが広場であるのもわからなくはない。

 もちろんこれは私の当時の勝手な解釈にさらに乗っかっただけであるから、そのような議論がされているのを見た事はない。再度ロラン・バルトを持ち出して言うなれば(もっとも私はバルトは『表徴の帝国』しかまともに読み切れていないので使い方が正しいかはわからないが)、「作品は作者の手を離れる」ということか、丹下の作品を丹下の意図に関係なく私が解釈しただけである。

 

 都庁舎の構造でもう一つ興味深いことがある。都庁舎が「都市軸」を意識した建築であるということだ。都市軸と言えば丹下がこだわっていた都市計画の基礎理念だが、特にこの都市軸が印象深いのは東京計画1960においてだろう。

 ちょうど私が建築史をこうして勉強していたころ、六本木ヒルズ森美術館メタボリズム展をやっていた。これがまた展示の内容と関係なく、当時出来事として面白いことであったのだが、それは別にして、そこに展示されていた東京計画1960のころのメタボリズムのデザインは大変印象的であった(残念ながらそれらは失敗に終わってしまうのだが)。

 なかでも、東京計画1960そのものは都市計画に興味のあった私にとっては胸を躍らせるような内容だった。「有機体の成長過程を考えてみると、卵の段階では真ん中に芯があるが、やがてその芯を中心にして背骨が出来、殻を破って新しい成長段階に入る。つまり、有機体が成長する時は線的に伸びるのであり、最後まで円として成長することはない」(『丹下健三 一本の筆から』p.82)。なんとも夢のある、それでいてもっともらしい思想である。

 では、都庁舎のどこにこの「都市軸」が関係してくるというのか。それは第一本庁舎の双塔の間だという(平松剛『磯崎新の「都庁」』p.399)。そして、第二本庁舎はその軸線の邪魔にならないような、軸線を中心にして広がっていくような段差がついている。同じく丹下設計の新宿パークタワーも同様である。なお、パークタワーにおいては丹下の息子・丹下憲孝の『七十二時間、集中しなさい。』では南北に細い新宿中央公園を軸線とした(p.165)というが、都庁舎の軸線と垂直な軸を基軸にしたということか。丹下がどこまで広い範囲で都庁舎を捉えていたのか、面白いところであるが、今となってはわからないだろう。

 また、丹下のこの建築には日本文化的要素も取り入れられている。さすがは東京カテドラル聖マリア大聖堂にも日本の神社の構成を盛り込んだ丹下である。都庁を日本のシンボルだと考えていた(『磯崎新の「都庁」』p.384)丹下チームのこの案には日本民家の天井や江戸城の石垣と堀のデザインが盛り込まれている。

 新東京都庁舎については丹下自身あまり書き残していないだろうから、実際に彼がどのように考えていたのか詳しい事はわからない。けれども、丹下の建築には思想的な深さと面白さがある。いや、多くの建築家の作品にはそのような思想があって、例えば磯崎新浅田彰とともに何とも難解な本を書いているのだが、建築を勉強する前の私にはそれがわからなかった。単なる「かっこいいデザインのビル」としか見れなかった。丹下健三東京都庁舎は私が建築の面白さを知る入り口となった、私の中で今でも日本一好きな建築だ。

 

人物-001 嘉納治五郎 -嘉納治五郎とナショナリズム-

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 2013年9月、2020年オリンピックの開催地が東京都に決定した。1964年の東京オリンピックは知らぬ人は少ないと思うが、1940年の東京オリンピックの存在を知る者はあまりいないのではないだろうか。その中止・返上となった1940年の幻の東京オリンピックの招致成功は当時の日本にとって画期的なことであったが、その背景にはとあるIOC委員の功績があった。

 講道館柔道の創始者・嘉納治五郎は廃れかけていた日本の古流柔術を近代化し、講道館柔道として世界に誇るべき日本文化に育て上げたのだが、彼の功績は広きにわたる。

 嘉納は1909年に東洋初のIOC(international Olympic Committee)委員となり、長きにわたって活動し、1936年のIOC総会で東京オリンピックの招致に成功したのだが、その背景には長年の嘉納の活動をねぎらう思いがあったとも言われる。

 1938年の嘉納の死後、東京オリンピック日中戦争の長期化により頓挫してしまう。もし、1940年に東京オリンピックが開催されていたらどのようなものになっていたのだろうか。安易に今日のオリンピックのイメージを当てはめるべきではないだろう。

 西暦1940年が大日本帝国にとってただならぬ意味を持っていたのは今日ではあまり即座に理解されないかもしれない。西暦1940年は神武天皇の建国(B.C.660)よりちょうど紀元2600年の記念すべき年だった。

 私がまず紀元2600年で思い出すのは「紀元二千六百年」という唱歌である。この歌はタバコの値上げとからめた替え歌がまた面白いのだが、「荒ぶ世界にただ一つ 揺るがぬ御代の生立ちし 感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年 ああ報国の血は勇む」などとなんともナショナリスティックな歌詞である。

 当時の大日本帝国に限らず、オリンピックはナショナリズムの高揚のために利用されるものだったのは、1936年のオリンピックがベルリンで行われ、ナチスのプロバガンダに利用されていたこと、1944年にイタリアで開催される可能性があり、またナチスが巨大施設を作り、以後のオリンピック開催を独占しようと思っていたことからもわかる。

 ここで、1940年東京オリンピック招致の立役者・嘉納治五郎に当時の日本の超国家主義(ウルトラナショナリズム)との関係があったのかどうかということが疑問として浮かびあがってくる。

 従来の研究では嘉納とナショナリズムの関係についての言及は充分になされていない。それには、嘉納研究者の東憲一が言うように、柔道家の研究者主体で行われている嘉納研究が創始者嘉納に批判的になりづらいことが理由として挙げられる。

 では、嘉納と大日本帝国ナショナリズムはどう関係しているのだろうか。まず、戦前日本のナショナリズムがどのような形で出てきたのかを確認しよう。

 幕末では個々人の帰属意識は「藩」にこそあり、「国」という共同体意識はなかったが、明治政府になり、その必要性から「国家」と「国民」が創出されていった。その際に国家の基軸としての「皇室」が掲げられ、「国体」も創られた。橋川文三によれば、欧米列強への危機意識や、幕末期に形成された平等意識がこうした背景にはあるという。

 ちなみに、皇室尊重は「国家」の創出のために行われたので、明治維新の元勲たちは皇室を本心から尊ぶようなことはあまりしていないだろうが、宮台真司の言葉を借りるならば「ネタ」が「ベタ」になったというような状態(だんたん天皇が崇高な存在として浸透していった)になっていった。(余談だが、某国の反日運動とかにも似たものを感じる・・・)

 そのような日本国家の潮流の中で、嘉納は帝国大学に入るエリートとして成長していた。嘉納は柔術に興味を抱き、当時廃れかけていた柔術を習い、それを近代化(技術の体系化・理論化など)し、講道館柔道を創始した。これは、井上俊も指摘するように、エリック・ホブズボウムの「創造された伝統」に当てはまるものである。なお、柔術については中国起源とする説もあり、ラフカディオ・ハーンも柔道の技が中国に由来すると主張したのだが、嘉納が日本固有のものであると結論づけたのも興味深い。

 その後の嘉納は学習院東京高等師範学校で教師としての道をたどっていくのだが、一方で国士を創るための「造士会」を創始、『国士』などの雑誌で学校外でも国の進歩のための若者の教育に力を注ぐ。

 大正期、いわゆる大正デモクラシーという思想の多様化を見た嘉納は、これに批判的な態度を取る。まさに大正デモクラシー化で権威を失いつつあった教育勅語の復権という意味合いを含めた形で嘉納の「精力善用・自他共栄」の理念が登場する。

 ちなみに、大正の帝都震災の際に嘉納は「天は一大試練によって吾等の惰眠と驕慢の悪夢とを破らんとせしには非ざるか」と、東日本大震災の際の石原慎太郎の「天罰」を彷彿させるような記述もしている。

 さて、昭和時代に入るといよいよナショナリズムの気運が国家を覆い、国体についても、ほとんどトートロジー的な説明で、シニフィエの空虚さをシニフィアンの過剰で覆い尽くすような言論がひたすら語られていた(姜尚中『思考のフロンティア ナショナリズム』)。

 こうした中で嘉納も「国体を尊び歴史を重んじ、その隆昌を図らんが為、常に必要なる改善を怠らざらんことを期す」(講道館文化会の設立宣言)などの言論を行う。

 嘉納は露骨な他国への侵略を批判していたが、いざ戦争への講道館の貢献も主張し、戦争の功労者の特別昇段も約束している。

 また、講道館自体も、大日本武徳会と並んで武道による思想善導を主張し、国家の権力装置として機能していた。

 嘉納は貴族院議員という政治家の立場にあったこともあるし、柔道の練習者や彼の雑誌の購読者に対する影響はあっただろうから、彼を日本のウルトラナショナリズムに全く無関係と言い切ることは難しい。

 無論、嘉納は講道館柔道を創始し世界への普及、教育者として多数の人材を育て上げるなど、彼の功績は簡単には語りきれない。時代の影響という部分も大きいだろうが、一方で彼の功績だけにとらわれず、彼のナショナリズムという側面を見たときに、こうした問題も浮かんでくることは意識すべきではないだろうか。