読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人物-001 嘉納治五郎 -嘉納治五郎とナショナリズム-

f:id:philosaiki:20061108144608j:plain


 2013年9月、2020年オリンピックの開催地が東京都に決定した。1964年の東京オリンピックは知らぬ人は少ないと思うが、1940年の東京オリンピックの存在を知る者はあまりいないのではないだろうか。その中止・返上となった1940年の幻の東京オリンピックの招致成功は当時の日本にとって画期的なことであったが、その背景にはとあるIOC委員の功績があった。

 講道館柔道の創始者・嘉納治五郎は廃れかけていた日本の古流柔術を近代化し、講道館柔道として世界に誇るべき日本文化に育て上げたのだが、彼の功績は広きにわたる。

 嘉納は1909年に東洋初のIOC(international Olympic Committee)委員となり、長きにわたって活動し、1936年のIOC総会で東京オリンピックの招致に成功したのだが、その背景には長年の嘉納の活動をねぎらう思いがあったとも言われる。

 1938年の嘉納の死後、東京オリンピック日中戦争の長期化により頓挫してしまう。もし、1940年に東京オリンピックが開催されていたらどのようなものになっていたのだろうか。安易に今日のオリンピックのイメージを当てはめるべきではないだろう。

 西暦1940年が大日本帝国にとってただならぬ意味を持っていたのは今日ではあまり即座に理解されないかもしれない。西暦1940年は神武天皇の建国(B.C.660)よりちょうど紀元2600年の記念すべき年だった。

 私がまず紀元2600年で思い出すのは「紀元二千六百年」という唱歌である。この歌はタバコの値上げとからめた替え歌がまた面白いのだが、「荒ぶ世界にただ一つ 揺るがぬ御代の生立ちし 感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年 ああ報国の血は勇む」などとなんともナショナリスティックな歌詞である。

 当時の大日本帝国に限らず、オリンピックはナショナリズムの高揚のために利用されるものだったのは、1936年のオリンピックがベルリンで行われ、ナチスのプロバガンダに利用されていたこと、1944年にイタリアで開催される可能性があり、またナチスが巨大施設を作り、以後のオリンピック開催を独占しようと思っていたことからもわかる。

 ここで、1940年東京オリンピック招致の立役者・嘉納治五郎に当時の日本の超国家主義(ウルトラナショナリズム)との関係があったのかどうかということが疑問として浮かびあがってくる。

 従来の研究では嘉納とナショナリズムの関係についての言及は充分になされていない。それには、嘉納研究者の東憲一が言うように、柔道家の研究者主体で行われている嘉納研究が創始者嘉納に批判的になりづらいことが理由として挙げられる。

 では、嘉納と大日本帝国ナショナリズムはどう関係しているのだろうか。まず、戦前日本のナショナリズムがどのような形で出てきたのかを確認しよう。

 幕末では個々人の帰属意識は「藩」にこそあり、「国」という共同体意識はなかったが、明治政府になり、その必要性から「国家」と「国民」が創出されていった。その際に国家の基軸としての「皇室」が掲げられ、「国体」も創られた。橋川文三によれば、欧米列強への危機意識や、幕末期に形成された平等意識がこうした背景にはあるという。

 ちなみに、皇室尊重は「国家」の創出のために行われたので、明治維新の元勲たちは皇室を本心から尊ぶようなことはあまりしていないだろうが、宮台真司の言葉を借りるならば「ネタ」が「ベタ」になったというような状態(だんたん天皇が崇高な存在として浸透していった)になっていった。(余談だが、某国の反日運動とかにも似たものを感じる・・・)

 そのような日本国家の潮流の中で、嘉納は帝国大学に入るエリートとして成長していた。嘉納は柔術に興味を抱き、当時廃れかけていた柔術を習い、それを近代化(技術の体系化・理論化など)し、講道館柔道を創始した。これは、井上俊も指摘するように、エリック・ホブズボウムの「創造された伝統」に当てはまるものである。なお、柔術については中国起源とする説もあり、ラフカディオ・ハーンも柔道の技が中国に由来すると主張したのだが、嘉納が日本固有のものであると結論づけたのも興味深い。

 その後の嘉納は学習院東京高等師範学校で教師としての道をたどっていくのだが、一方で国士を創るための「造士会」を創始、『国士』などの雑誌で学校外でも国の進歩のための若者の教育に力を注ぐ。

 大正期、いわゆる大正デモクラシーという思想の多様化を見た嘉納は、これに批判的な態度を取る。まさに大正デモクラシー化で権威を失いつつあった教育勅語の復権という意味合いを含めた形で嘉納の「精力善用・自他共栄」の理念が登場する。

 ちなみに、大正の帝都震災の際に嘉納は「天は一大試練によって吾等の惰眠と驕慢の悪夢とを破らんとせしには非ざるか」と、東日本大震災の際の石原慎太郎の「天罰」を彷彿させるような記述もしている。

 さて、昭和時代に入るといよいよナショナリズムの気運が国家を覆い、国体についても、ほとんどトートロジー的な説明で、シニフィエの空虚さをシニフィアンの過剰で覆い尽くすような言論がひたすら語られていた(姜尚中『思考のフロンティア ナショナリズム』)。

 こうした中で嘉納も「国体を尊び歴史を重んじ、その隆昌を図らんが為、常に必要なる改善を怠らざらんことを期す」(講道館文化会の設立宣言)などの言論を行う。

 嘉納は露骨な他国への侵略を批判していたが、いざ戦争への講道館の貢献も主張し、戦争の功労者の特別昇段も約束している。

 また、講道館自体も、大日本武徳会と並んで武道による思想善導を主張し、国家の権力装置として機能していた。

 嘉納は貴族院議員という政治家の立場にあったこともあるし、柔道の練習者や彼の雑誌の購読者に対する影響はあっただろうから、彼を日本のウルトラナショナリズムに全く無関係と言い切ることは難しい。

 無論、嘉納は講道館柔道を創始し世界への普及、教育者として多数の人材を育て上げるなど、彼の功績は簡単には語りきれない。時代の影響という部分も大きいだろうが、一方で彼の功績だけにとらわれず、彼のナショナリズムという側面を見たときに、こうした問題も浮かんでくることは意識すべきではないだろうか。