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人物-002 丹下健三 -私と東京都庁舎-

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 私が建築に興味を持ったのはいつからなのか、正確なことはもう思い出せないし、もともとたいした経緯もなかったのかもしれない。

 ただ、私は大学4年のころ、訳あって少しばかり建築の勉強に励むことになった。

 東京大学工学部建築学科。そこにいた友人は私の無二の親友の一人だが、なんとも致し方ないやつで、私は大学4年の春から夏にかけてのころには毎日のように彼から「院試がやばい」という話をSkype上で聞かされていたのだった。

 そのころ東浩紀界隈でのアーキテクチャの議論を、当時はもうブームではなかったのかもしれないが、追いかけるようにして読んでいた私は、建築には興味もあるからと言って一緒に東大院の勉強をすることにした。その他にも理由があったのだという気もするが、それはこの場には書けない。

 院試の勉強をすることにしたとはいえ、私は建築なんてものには全くの無知であったし、小難しい構造の話は理解できないので、実際に院試を受けるのではなく、あくまで趣味で一緒に建築史を勉強する程度のことであった。

 

 そうしてわずかにでも建築の勉強をするようになった私の頭には常に意識するある一つの建築物があった。東京都庁第一本庁舎である。当時の私の見聞が狭かったこと、またその建物が単なる一つの建築物として私に意識されなかったこともあるかもしれないが、好きな建築を挙げるならばそれは都庁舎をおいて他になかった。そして、建築史を勉強する傍らであの建築について知りたいという強い思いがあった。 

 「丹下健三という建築家が作ったものらしい」というのは以前から知っていたのだが、彼が日本を代表する建築家であったこと、そして丹下の建築のなかで都庁舎は一番の代表作品と言われないことを知ったのはそのころだっただろう。

 そして建築史を勉強していく中で、都庁舎の造形はゴシック様式ノートルダム大聖堂を参考にしていると言われることを知る。丹下がゴシックをいつか作りたいとか言っていたから影響が出たとかどうとか、実際どこまで本当かは知らないが、一般的にそう言われる。このノートルダム大聖堂についてはまた後日書くと思うが、都庁舎と絡めて気になったのはその大聖堂の役割である。

 言うまでもなく、ノートルダム大聖堂キリスト教の宗教施設である。ちなみに、都民広場もサン・ピエトロ広場を参考にしており、これも宗教色の強い広場であるが、このときはそれを知らなかった。なぜ宗教施設をモチーフとしたのか、そしてこれは今となっては安易にこうは言いたくはないが、当時はこう思っていた。

 「なぜ、大聖堂で儀式等を行う中心部が空洞(広場)で、見かけが絢爛なファサードの双塔が行政の中心なのか」

 もちろん実用性を考えればそれは当然のことなのだから、愚かな問いである。しかし、もう少しだけ愚かしい考察をしてみよう。都庁舎が目指していたものが「シティ・ホール」であるとすれば、市民=都民の交流する場である広場こそがこの施設の中心とも言えるのではないか。

 「シティ・ホール」とは何か。丹下健三は丸の内のころの旧都庁舎の設計をしたときにこう述べている。

 封建社会から独立し、自治都市を築いた現代において、市庁舎は上から与えられるものではなく、市民社会の自由と独立の獲得のために自らを治める機関であった。だから市庁舎は市民意識の統一を生み出す象徴でもあったし、市民が集まり、まじわる場所である。ヨーロッパの市庁舎にはこのようなシティ・ホールがあり、ここは夕方から夜まで市民に解放されている。そこでは音楽団が音楽を聴かせることも、市民の結婚式が行われることもある(丹下健三『人間と建築』p.269-271の要約)。

 丸の内の旧都庁舎がどれだけこの役割を果たせていたのかはわからないが、都庁舎を建て替える議論が行われてくるなかで、再びこの概念が注目を浴びる。

 当時はなぜあの何もない空虚な空間が真ん中にあるのか(それこそ、ロラン・バルト的な「空虚な中心」ではないか)気になったものだが、それを考慮するとあそこが広場であるのもわからなくはない。

 もちろんこれは私の当時の勝手な解釈にさらに乗っかっただけであるから、そのような議論がされているのを見た事はない。再度ロラン・バルトを持ち出して言うなれば(もっとも私はバルトは『表徴の帝国』しかまともに読み切れていないので使い方が正しいかはわからないが)、「作品は作者の手を離れる」ということか、丹下の作品を丹下の意図に関係なく私が解釈しただけである。

 

 都庁舎の構造でもう一つ興味深いことがある。都庁舎が「都市軸」を意識した建築であるということだ。都市軸と言えば丹下がこだわっていた都市計画の基礎理念だが、特にこの都市軸が印象深いのは東京計画1960においてだろう。

 ちょうど私が建築史をこうして勉強していたころ、六本木ヒルズ森美術館メタボリズム展をやっていた。これがまた展示の内容と関係なく、当時出来事として面白いことであったのだが、それは別にして、そこに展示されていた東京計画1960のころのメタボリズムのデザインは大変印象的であった(残念ながらそれらは失敗に終わってしまうのだが)。

 なかでも、東京計画1960そのものは都市計画に興味のあった私にとっては胸を躍らせるような内容だった。「有機体の成長過程を考えてみると、卵の段階では真ん中に芯があるが、やがてその芯を中心にして背骨が出来、殻を破って新しい成長段階に入る。つまり、有機体が成長する時は線的に伸びるのであり、最後まで円として成長することはない」(『丹下健三 一本の筆から』p.82)。なんとも夢のある、それでいてもっともらしい思想である。

 では、都庁舎のどこにこの「都市軸」が関係してくるというのか。それは第一本庁舎の双塔の間だという(平松剛『磯崎新の「都庁」』p.399)。そして、第二本庁舎はその軸線の邪魔にならないような、軸線を中心にして広がっていくような段差がついている。同じく丹下設計の新宿パークタワーも同様である。なお、パークタワーにおいては丹下の息子・丹下憲孝の『七十二時間、集中しなさい。』では南北に細い新宿中央公園を軸線とした(p.165)というが、都庁舎の軸線と垂直な軸を基軸にしたということか。丹下がどこまで広い範囲で都庁舎を捉えていたのか、面白いところであるが、今となってはわからないだろう。

 また、丹下のこの建築には日本文化的要素も取り入れられている。さすがは東京カテドラル聖マリア大聖堂にも日本の神社の構成を盛り込んだ丹下である。都庁を日本のシンボルだと考えていた(『磯崎新の「都庁」』p.384)丹下チームのこの案には日本民家の天井や江戸城の石垣と堀のデザインが盛り込まれている。

 新東京都庁舎については丹下自身あまり書き残していないだろうから、実際に彼がどのように考えていたのか詳しい事はわからない。けれども、丹下の建築には思想的な深さと面白さがある。いや、多くの建築家の作品にはそのような思想があって、例えば磯崎新浅田彰とともに何とも難解な本を書いているのだが、建築を勉強する前の私にはそれがわからなかった。単なる「かっこいいデザインのビル」としか見れなかった。丹下健三東京都庁舎は私が建築の面白さを知る入り口となった、私の中で今でも日本一好きな建築だ。