論考-001 ノートルダムは「科学的」か

 ノートルダム大聖堂については先日の記事の中で東京都庁舎と造形が似ているという程度に触れた。

 ノートルダム大聖堂とはゴシック様式の教会であり、パリのノートルダム大聖堂が観光地として有名だが、フランスを中心に12、13世紀ごろに建築された、先の尖った尖頭アーチ、採光に適した側壁の大きな窓、フライング・バットレスバットレスのある独特の形状の建築のことである(言葉で説明するよりも、実際に写真で見た方がわかりやすいだろう)。ゴシックの大聖堂と言った方が適切かもしれないが、あえて本論考ではこの表現で通す。

 

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(パリのノートルダム大聖堂アミアンノートルダム大聖堂

私はパリの大聖堂はもちろん、サン=ドニやアミアンなどの大聖堂を訪れたことがある(本論考内の写真はすべて私が実際に行って撮影したもの)が、それらは実に燦然としていて、「ゴシック」という言葉が(フランスへのナショナリスティックな敵愾心が根底にあったにせよ)イタリア人によって「未完成の様式」という侮蔑の意味を持って名付けられたものとはとても信じ難かった。

 

 ノートルダム大聖堂については一応の簡潔な説明をしたところで、もう一方の「科学的」という言葉についての話をしよう。「科学」とは何か。おおよそ普通の人が思い浮かべるであろうものは先進的な科学技術や難しい数式の並ぶような自然科学であるかもしれないが、それだけでもいいし、もちろん社会科学や人文科学を含めても構わない。特にここでは厳密な定義付けをせずに、物理学などを頭に思い浮かべてもらえれば良い。大事なのはその性質である。

 私はたいして勉強をしたわけではないが、大学時代に科学史・科学哲学の研究室に入っていた。入った理由はなんてことはない、大学でする研究はすべて「科学」であるし、「科学」、「歴史」、「哲学」というとても幅広い学問なので世界の構造を読み解くことに一番近いのではないかと思ったこと、そして逆に言えば何の卒業論文を書いてもその研究分野と言えてしまうことだった(実際に私も含め、研究室の学生の論文は実にバラエティ豊かだった)。

 3年のときのゼミの形式は、毎回課題図書を読んでそれについて議論するというものだったが、そのときにテーマとなった問いに「東洋では今日のような科学が生まれる可能性があったか」というものがあった。これは科学史では一般的な問いの一つかもしれないが、その際の議論はうろ覚えでしか覚えていない。

 科学史の分野でこの問いについて一般的にどのような結論が出されているのかは知らないが、そのときの議論では、否、もしくはかなり難しいという結論になったのではなかったかと思う。中国の文明は発展していたし、江戸時代の日本での珠算などの技術は欧州に引けをとらないものもあったのは疑いないが、西洋の科学技術の発展はキリスト教のような一神教の存在を抜きにして語れないからだ。

 キリスト教の影響下にあったヨーロッパでは、物事の根底には必ず一貫した論理があるというのが当然に考えられていた。科学的な発見には、神が創ったこの世界を解き明かすという思考が背景にあり、矛盾というものが自然に排除されていった。しかし、中国などの東洋では、台風のような自然現象に一貫した論理はないと考えられていた。矛盾を無理に排除することは厳密には行われていなかった。これが西洋と東洋の思考の根底にあるものの違いで、一神教こそが科学の発展に寄与したと考えられるのである。

 さて、ここで今日のテーマである「ノートルダム(大聖堂)は科学的なのか」という問いについて考える。「科学」の背景に一神教的な、この世に一貫した論理がある、つまり科学のなかに、この世は一点の中心(神)を持っているという価値観があったのは既に述べた通りである。

 

 盛期ゴシックの大聖堂は何よりも「全体性」を目指し、それゆえ、削除と綜合によって一つの完全で最終的な解決に近づいていった。・・・(中略)・・・その彫刻群においては盛期ゴシックの大聖堂は、キリスト教の神学的な、道徳的な、自然的な、そして歴史的な知識の全体を具現することを求め、その際、それぞれをそれぞれの場所におき、もはやその場所を見いださないものは削除した。建物のデザインにおいても同様に、それは別々の経路によって伝えられた主要なモティーフのすべてを綜合することを求め、ついには、バシリカと有心式平面型の間に比類のない均衡を達成した。そしてその際、クリプトや階上廊や正面の二塔以外の塔といったこの平衡を危うくするような要素はすべて削除してしまった。(アーウィンパノフスキーゴシック建築とスコラ学』前川道郎訳,p.60-61)

 

 ノートルダム大聖堂が建てられたころ、フランスを中心にスコラ学が隆盛を見せていたが、パノフスキーによれば、ノートルダム大聖堂(ゴシックの大聖堂)にはスコラ学の影響が見て取れるのだという。スコラ学の目的は矛盾を解消しキリスト教の信仰と、理性との統一することであったが、これこそがまさにキリスト教の下で科学技術が発展した背景にあったものに重なる。初期のゴシック様式のサン=ドニの聖堂とスコラ学とは地域・時間的な同一性があり、建築の建設者たちも当然スコラ学を学んでいるから影響があるのだという。

 ノートルダム大聖堂は先の引用文に見られるように徹底的な統一を志したことなどに加え、幾段に重なるアーチによって力学的に一点に集中するような構造を持っていた。このことがまたノートルダム大聖堂にスコラ的要素があることの証左とされる。

 

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アミアン大聖堂内のアーチ(ヴォールト))

 

 ゴシックの建築師たちはこのいわば非合理に連なる空間を合理的な秩序に従わせることに心を配った—中世の神学者が信仰と理性、非合理と合理、の和解に苦心してスコラ哲学の巨大な精緻な体系をつくり上げたように。驚くべき巧みなゴシックの構造体系とそれに素直に従いながら超越的な空間を現象させている堂内外の構図は、理性と感情、知識と信仰、の幸福な調和を言い現し、また主廊のおのおのの間その他いたるところに見いだされる分節的構造は、分かち難い混沌を分かつスコラ的合理主義を言い現しているといえる。実に、ゴシックの大聖堂は「石に化したスコラ哲学」と言うことができる。(森田慶一『西洋建築入門』,p.123-124)

 

 上記の引用文で「石に化したスコラ哲学」と言われるように、ノートルダム大聖堂には深くスコラ的な思想が根付いており、その意味で非常に科学的な(科学と同じ背景を持つ)建築と言えるだろう。

 もちろん、パノフスキーの議論にも批判はある。例えば、ジョルジュ・バタイユの研究者である酒井健は『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』のなかで、彼の議論の論拠の一つとなるゴシックとスコラの「同時性」には無理があると述べている(p.92)。しかし、酒井はゴシックにおけるスコラの影響こそ否定するものの、無関係ではないとして「両者は、調和への意志というこの時代の精神土壌、パノフスキーの言葉を使うならば『精神習慣』から生まれた二つの別箇の大輪なのだ」(同,p.93-94)と述べている。

 ゴシックとスコラ学の直接の関係はわからないが、これらの元になる精神土壌、つまり一神教的な精神土壌はともに科学の発展を押し進める動力でもあった。この意味でノートルダム大聖堂を見たときに、そこに「科学」に通ずるものを見ることができるだろう。