人物-003 快楽亭ブラック

本の学校で学ぶ日本史においてオーストラリアの影は薄い。明治維新後に来日し、活躍した外国人のなかでもオーストラリア人というのは目にしない。それもそのはず、オーストラリアは1901年に独立するまで英国の流刑植民地であり、それまではオーストラリア人ではなく英国人であった。

 

英国人としてオーストラリアから来日した人物でおそらく一番有名なのは快楽亭ブラックだろう。快楽亭ブラックことヘンリー・ブラックは日本に定住を決めた父、ジョン・ブラックに呼び寄せられ、メルボルンから横浜に来る。

父のジョンは横浜からオーストラリアに戻った男性に日本の話を聞き、オーストラリアでの事業をあきらめイギリスに帰る途中に日本に立ち寄った。そして、ちょっと立ち寄る予定だった日本に定住を始め、英字新聞「ジャパン・ガゼット」を創刊した。ジョンはまた「日新真事誌」を創刊し、外国人として初めて日本語の新聞を創った。これは当時の「横浜毎日新聞」、「東京日日新聞」が「論説を書こうとせず、…(中略)…猥雑な小記事で塗りつぶされていて、外国人の目には、情けないと言うよりも害悪を及ぼす」と考えたためであった。

アデレードで生まれたヘンリーはジョンから手紙を受け取り母とともに来日する。幼くして来日したヘンリーは日本語を流暢に話し、正統派の落語家になる道を選んだ。そして1891年に快楽亭ブラックを名乗る。1893年には日本人女性の婿養子となることで日本国籍を取得、石井貌刺屈と名乗る

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ヘンリーは落語のほかにも手品、歌舞伎などの芸に富んだ。また、1903年に落語をレコードに吹き込み、これは日本で初めてのレコード録音とされている。

1923年にヘンリーが亡くなった後、英字新聞「ジャパン・ウィークリー・クロニクル」は以下のように書いた。

「西洋から日本に移り住んだ移住者のなかで、最もユニークな存在であった人物が亡くなった。その人物とは、石井ブラックで知られたヘンリー・ブラックである。…(中略)…石井ブラックほど、深く日本の生活に溶け込んだ人間はいない。彼は、日本という外国で、異民族を相手に、プロのエンタテイナーとして生涯を過ごしたが、日本のプロ顔負けの話術で客の心を動かし、すっかり日本人の心の中に入り込み、日本全国を旅して歩いた」*1

明治維新後、欧米からお雇い外国人をはじめ、多くの外国人が来日した。その中でも快楽亭ブラックことヘンリーは小泉八雲などと並んで最も日本文化に親しんだ者の一人だろう。なお、快楽亭ブラックの名は現在、福田秀文に襲名されている。

*1:遠藤雅子『オーストラリア物語』(平凡社新書、2000年)、170頁)