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論考-003 なぜ英語の勉強が重要なのかについての一考察

「なぜ英語を勉強するのか」―英語を使わなくても生きていける日本では、多くの学生が抱く疑問ではないだろうか。

英語ができなくても働けること、通訳・翻訳アプリがこのまま発展していけば英語を勉強しなくても意思疎通ができるのではないかという期待、そもそも外国人と関わる機会がないなど、様々な要因から「英語を勉強しなくていい」という考えを持つ人も多いだろう。

私自身、高校のときは英語は赤点を取ることも多く、大学のレベル別の英語クラス分けでも初級コースにいた。2年前までの英語力は酷いものだった。私が英語の勉強を始めたのは、主に仕事関係の理由に拠るものだが、少し勉強してみてその重要さを一層実感している。

一方で、勉強するか否かは別として、英語ができた方が良いという前提は多くの人が共有できるものだろうが、なぜ英語ができた方が良いのか。海外旅行で役に立つから、ビジネスで役に立つから、外国人と友達になれるから、英語の本も読めるようになればより多くの情報が得られるから、就職活動で有利になるから、大学進学に必要だから、海外の文化を学べるからなど、理由は容易に列挙できる。

実際にこれらは全て正しい。英語ができれば旅行や交友関係の幅は広がる。また、伊藤博文が「英語ができるから」初代総理大臣となった時代から130年経った今でも、日本では英語ができることがキャリアにつながる。

これらの一般的に語られる「英語を勉強する理由」はここでは扱わずに、その理由をもう一つ提示したい。あえて分類するのであれば「海外の文化を学べる」に近いが、「世界で共有されている視界を得られる」ということがある。

仮に完璧な通訳アプリが開発されて、スマホを持ち歩くだけで世界中の人と話せるようになったとする。海外旅行でも困らないし、ビジネスの交渉もスムーズに行くかもしれない。しかし、本当にそれがあれば母国語で母国の人と会話するように外国人と話せるのだろうか。いや、そんなことはないだろう。そもそも、人の心を推察できるようにならなければ、完璧な通訳アプリなんてものが作れるわけがなく、そんなことは現代の科学技術では到底無理である。(通訳アプリ事情は詳しくないので、認識に誤りがあればご指摘いただきたい)

例えば、日本人は人と話すときに「よろしく」とか「よろしくお願いします」という言葉を頻繁に発しているが、これに一対一対応する英語は存在しない。英語に訳す場合にはシチュエーションによって翻訳を変えなければならない。そもそも、それをシチュエーションに沿って翻訳したところで、その言葉を発することがそもそも英語文化圏では不自然になる場合も多い。この感覚は英語でのやり取りをしたことがある人ならば容易に理解できるだろう。

英語話者と日本語話者ではそもそもコミュニケーションを行う際の発想の仕方や論理の組み立て方に大きな違いがある。ハイコンテクストカルチャーかローコンテクストカルチャーかなどである。

そして、私が特にここで強調したいのは、「世界の見方が言語で変わる」ということである。同じ世界で生きていても、人間と動物、虫では世界の見え方が異なる。複眼なのか、色が認識できるのかなどの違いがある。思想や宗教、文化が違えば、世界の見方は変わる。そして、言語も無意識に人の視界を固定してしまうのである。

例えば、フランス語の"riviere"と"fleuve"、"ruisseau"などの違いは日本語の感覚とは異なると言われる。英語でも、単語帳や辞書に書いてある意味で理解してしまうと不十分なことが多い。この辺は言語学を勉強すると詳しいに違いない。大学時代にソシュールメルロ=ポンティなどを勉強していた際に、理屈では知っていたことだが、実際に英語を少しできるようになると強く実感できる。

今は海外在住なので手元に本がないが、ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』には「なぜ東洋では哲学が生まれなかったのか」という話が出てきたように記憶している。もちろん東洋でも東洋哲学はあったのだが、根底の思想が異なるので、そもそも概念が西洋哲学を理解するための言葉がなかった。

日本で明治時代に福澤諭吉西周などが西洋の文書の翻訳を進め、日本語にその訳語をたくさん作ったのは広く知られている。仮にその際に訳語が開発されていなかったら、果たして我々日本人の見る世界はどうなっていただろうか。日本語を完璧に話せる外国人は自身の考えを日本語で伝えられただろうか。現在では頻繁に使われる外国語の単語は日本語に該当する言葉が作られているが、まだまだ英語でしか理解できない概念が多い。

人は誰しも、様々なフィルター越しに物事を解釈しているが、そのフィルターの一つが言語であり、そのフィルターを日本語から英語に変えられることは重要な利点だろう。英語の話者数は中国語の話者数よりも少ないとされるが、日本などを除き、多くの国では国内でエリート教育を受けてきた人たちは英語を流暢に使える。つまり、英語圏のものの考え方などは広く共有されている。英語がわからなければ、例え通訳が付いていようと、多国籍の会議等の場で自分だけ正しい認識を共有できないことがあるだろう。視野を共有するためには、異文化を学ぶことも重要だが、同様に言語を学ぶ必要がある。

以上が本記事で最も書きたかった「英語を勉強する理由」であるが、もう一つ書いておかなければならないことがある。

確かに、現在の日本では英語がなくても生活には一切困らない。大学で勉強をするのでも、少なくとも理系分野では英語を使わなくても十分な学習環境が整っているのではないか。しかし、殆どの文系分野では日本語での教科書があるとしても、日本語で学ぶよりも英語で学んだ方が効果的であるだろうし、そもそも日本語だけでは重要な論文も読めない。

社会人も、今は多くの海外書籍が日本語翻訳で読める。しかし、ただでさえ出版不況が語られる中、今後、人口減少社会が進展する中で書籍を日本語翻訳していくことには、より慈善的な動機が求められるに違いない。良質な情報を得る際の英語の役割は一層大きくなる。

日本で英語の必要性が強く唱えられてから、すでに百数十年が経過しているが、依然として英語の勉強は重要だ。